舒明天皇 巻1-2 | |
天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌 大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は |
|
口訳 | 大和にはたくさんの山があるが、特に良い天の香具山に登って、国を見渡せば、 国の原には煙(けぶり)があちこちで立ち上っているし、海には、鴎(かまめ)が飛び交っている。 本当に良い国だ、蜻蛉島(あきづしま)の大和の国は。 |
場所 | 橿原市南浦町・天香久山西側中腹 (揮毫者・元暦校本より) |
原文 | 天皇、登香具山望國之時御製歌 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜柯國曽 蜻嶋 八間跡能國者 |
写真 | |
香具山は天上から降った聖なる山との伝説があり、畝傍山・耳成山とともに大和三山の一つ。 蜻蛉島は「大和」にかかる枕詞。 舒明天皇(推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、第34代天皇。諱は田村(たむら)。 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。 これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と 他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。 また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と 庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、 蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。 ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。 百済と新羅からの使節も訪れた。 『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。 2011.3.6 |
トップページへ |