軍王(いくさのおほきみ) 巻1-5、6
   讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時に、軍王の山を見て作れる歌
   霞立つ 長き春日の 暮れにける
   わづきも知らず むらきもの 心を痛み
   鵺子鳥(ぬえことり) うら嘆(な)げ居(を)れば
   玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王(おほきみ)の
   行幸(いでまし)の 山越しの風の 独り居(を)る
   吾が衣手(ころもて)に 朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我も
   草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに
   綱の浦の 海人処女(あまをとめ)らが 焼く塩の
   思ひぞ焼くる 吾が下情(したごころ)

   反歌
   山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜(よ)おちず
   家なる妹(いも)を 懸(か)けて偲(しの)ひつ

   右は、日本書紀に検(ただ)すに、讃岐(さぬき)の国に幸(いでま)すことなし。
   また、軍王もいまだ詳らかにあらず。
   ただし、山上憶良大夫(まへつきみ)が類聚歌林(るいじうかりん)に曰(い)はく、
   「記には『天皇の十一年己亥(つちのとゐ)の冬の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、
   伊予(いよ)の温湯(ゆ)の宮(みや)に幸(いでま)す云々』といふ。
   一書(あるふみ)には『この時に宮の前に二つの樹木あり。
   この二つの樹に斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との二つの鳥いたく集(すだ)く。
   時に勅(みことのり)して多(さは)に稲穂を掛けてこれを養(か)はしめたまふ。すなはち作る歌云々』といふ」と。
   けだしここよりすなはち幸すか。
口訳    霞が立ち込める、長い春の日が暮れていくように、
   なんということもなく心の芯が傷むので
   ぬえ鳥のように 忍び泣いていると
   美しい襷を かけるように立派な 遠くは神であらせられた
   天皇がお出ましになっている山を 越していく風で
   朝夕に、独り身の私の袖がひるがえる
   自分では 立派な男だと思っている私も
   旅に出ると 心の憂いを晴らす方法も知らなくて
   網の浦の海女をしている少女たちが
   焼いている塩のように わたしの物思いも 燃えてくる 私の心の底にあるさびしい思いが。

   山を越えて吹く風が絶え間ないので、
   一人寝る夜はいつも家に居る妻を偲んでいる。
原文    幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌
   霞立 長春日乃 晩家流
   和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見
   奴要子鳥  卜歎居者
   珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃
   行幸能 山越風乃 獨居
   吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母
   草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土
   網能浦之 海處女等之
   焼塩乃 念曽所焼 吾下情
反歌
   山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
場所  香川県綾歌郡宇多津町網の浦・網の浦万葉公園 (揮毫者・未詳)
写真  

  

舒明天皇が、讃岐国(さぬきのくに)安益(あや)郡に行幸の際、軍王(いくさのおおきみ)が詠んだとされている。
が、この地への行幸の史実はなく、又、軍王(いくさのおおきみ)についてもあまりはっきりしていないらいしい。
但し、舒明天皇が伊予の温湯宮(ゆのみや)に行幸した時の帰途、安益(あや)に立ち寄ったとの説もある。
2013.2.2



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