額田王(ぬかたのおおきみ) 巻1-20
   天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時に、額田王の作れる歌
  茜(あかね)さす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
  野守(のもり)は見ずや 君が袖(そで)振る
口訳   茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。
  その番人たちに見られてしまうではありませんか、そんなにあなたが私に袖を振っていては。
原文    天皇、遊猟生蒲野之時、額田王作歌
  茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
場所  香芝市下田西・総合体育館駐車場 (揮毫者・元暦校本より)
写真  
2012.4.15 
場所  大阪府吹田市津雲台・千里南公園 (揮毫者・花田峰堂)
写真    
    
2019.11.22
場所  滋賀県大津市皇子が丘・JR大津京駅前 (揮毫者・俵万智、小野寛)
写真    

 

  
2021.1.30
「あかねさす」は「紫」にかかる枕詞。
「紫野」は紫草の栽培されている野で、根から染料をとる。
「標野」は他人が入れないように標(しめ)を結ってある土地。
袖を振るのは求愛のしるしとされていました。

天智天皇7年(668年)5月5日、
新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催されました。
薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事でした。
額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生みましたが、
後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入りました。
この歌には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、
口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心が表れています。

実際には、狩りの後の宴席で、3人の関係を知る人たちを前に座興として交わされた歌のようです。
大海人皇子の返歌とのやりとりに、場は大いに盛り上がったことでしょう。
しかし、当の二人の内心はどうだったのでしょう。
座興としてしか思いを表出できない関係だからこそ、この上ない恋の揺れ動きが潜んでいる気がしないでもありません。
また、その後壬申の乱に至った歴史を見ると、単なる座興ではすまされない、凄まじい心の葛藤も垣間見えます。



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