大海人皇子(おおあまのみこ) 巻1-21
   皇太子(ひつぎのみこ)の答へませる御歌
   [明日香宮に天の下知らしめす天皇、諡(おくりな)して天武天皇(てんむてんわう)といふ]

  紫の 匂(にほ)へる妹(いも)を憎くあらば
  人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも
口訳   紫のように美しい君。君を憎く思うのなら、人妻なのにどうしてこんなに想うものでしょうか。
場所  香芝市下田西・総合体育館駐車場 (揮毫者・元暦校本より)
原文    皇太子答御歌[明日香宮御宇天皇、諡曰天武天皇]
  紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
写真  
2012.4.15 
壬申の乱は、天智天皇の死後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が後継者を争った、古代最大の争乱といわれる事件。
生前の天智天皇は、最初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた
弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていました。
しかし、実の子の大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなり、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになりました。

大海人皇子は暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、吉野に引きこもります。
そして、天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始めます。
それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織。
大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方につきました。
そして不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。
戦いは1ヶ月で終わり、大友皇子は自殺。
大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となりました。



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