持統天皇 巻1-28
   天皇の御歌(おほみうた)
  春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたへ)の 
  衣乾したり 天の香具山 
口訳   春がおわり夏がやって来たらしい。香具山に真っ白な衣が乾されている。
原文    藤原宮御宇天皇代[高天原廣野姫天皇元年丁亥、十一年譲位軽皇子、尊号曰太上天皇]天皇御製歌
  春過而 夏来良之 白妙能 
  衣乾有 天之香来山
場所  橿原市醍醐町・醍醐池堤 (揮毫者・犬養孝(国文学者))
写真  


2011.2.20 
歌碑の向こう側に見える背の低い山が天香具山です。
場所  橿原市南浦町・天香山神社 (揮毫者・中尾碌洲)
写真  
2011.3.6 
こっちの方が年季入ってますな。
場所  橿原市久米町・近鉄橿原神宮前駅東出口 (揮毫者・外山嘉弘)
写真  
2011.2.26 
いつも通勤でつかっているところです。

持統天皇(大化元(645)年 - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、第41代天皇。
実際に治世を遂行した女帝。諱は鵜野讚良(うののさらら)。

父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂。父母を同じくする姉に大田皇女がいました。
斉明天皇3(657)年、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。
中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えました。

斉明天皇7(661)年には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行きました。
その地で天智天皇元(662)年に讚良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産みました。
大田皇女が亡くなったので、讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になりました。

天智天皇10(671)年、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠せいしたとき、草壁皇子を連れてこれに従いました。
大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こしました。
皇女は我が子草壁皇子、母を異にする大海人の子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けて脱出。
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、讃良皇女が皇后に立てられました。

日本書紀によれば、天武天皇の在位中、皇后はずっと天皇を助け、そばにいて政事について助言しました。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わしました。
6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子。
天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁。続いて皇后も皇子らを抱擁しました。

皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立ちました。
681年、天武天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編さんを始め、当時19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせました。
当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなく、皇后の強い要望があったと推測されます。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていきました。

686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになりました。
大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母・大田皇女の身分は草壁皇子と同じでした。
立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と日本書紀は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞もありません。
草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた日本書紀の扱いがこうなので、2人の能力差・評判は歴然としたものだと思われます。
2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていました。
草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画しましたが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていました。
しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺しました。川島皇子の密告といわれています。
具体的にどのような計画があったかは史書に記されませんが、このあたりは里中満智子の漫画「天上の虹」を読むと興味深く描かれています。
ただ、天上の虹は「持統天皇物語」として彼女を中心に描かれているので本当のところはもっとえげつない策略があったのではないかと思います。

689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなりました。
讃良皇后は草壁皇子の子(つまり讃良皇后の孫)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7才)当面は皇太子に立てることもはばかられました。
こうした理由から讃良皇后は自ら天皇に即位することにした。これが持統天皇です。

その即位の前年に、前代から編さん事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行しました。
即位の後、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命しました。
ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになりました。
持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱です。
持統天皇は、柿本人麿に天皇を賛仰する歌を作らせました。
人麿は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、
彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じました。

天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸です。
夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われています。
他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸の記録があります。
万葉集の記述から近江に一度の行幸も推定されています。
伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麿のかん言を押し切りました。
この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図があったと言われています。

持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させた(現在の本薬師寺)。
外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持ちませんでした。
新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようです。
日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣されました。

持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていました。
高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていました。
公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかといわれています。
その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去。
懐風藻によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、
皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になりました。
持統天皇は8月1日に15才の軽皇子に譲位。文武天皇が即位しました。
日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になりました。
譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執りました。
文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行ですが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられています。
しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、
持統期に影が薄かった忍壁皇子が再登場したことに、変化が現れています。
このあと、やがて藤原氏が勢いを極めるようになります。

大宝2(702)年の12月13日に病を発し、22日に崩御。
1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬されました。
天皇の火葬はこれが初の例でした。
陵は檜隈大内陵(高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。
この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされています。
夫、天武天皇との夫婦合葬墓です。

持統天皇の遺骨は銀の骨つぼに収められていましたが、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたそうです。
盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれています。

カリスマだった夫・天武天皇から「つなぎ」として即位した女帝の苦悩が感じられますね。
きっと当時は天皇家ってものが絶対ってわけでもなかっただろうし、
かといって跡目争いに労力を使いすぎていたら政局も安定しなかっただろうし、
大津皇子が皇位についても結局それなりに争いの火種はついきなかっただろうし…。



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