柿本人麿 巻1-36・37
   持統天皇の吉野宮に幸しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌
  やすみしし わご大君の 聞(きこ)しめす
  天(あめ)の下に 国はしも
  多(さは)にあれども 山川の
  清き河内(かふち)と 御心を
  吉野の国の 花散らふ
  秋津の野辺に 宮柱
  太敷きませば 百磯城(ももしき)の
  大宮人は 船並(ふねな)めて
  朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ
  夕河渡る この川の
  絶ゆることなく この山の
  いや高知らす 水たぎつ
  滝の都は 見れど飽かぬかも

    反歌
  見れど飽かぬ 吉野の河の
  常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また還り見む
 
口訳  わが大君が御統治なさるこの天下に、国は実に多くあるけれども、
 特に山や川の清く美しい河内であるとして御心をお寄せになる吉野の国の、
 花がしきりに散っている秋津の野辺に宮殿を立派にお作りになっていらっしゃるので、
 お仕えする人々は舟を並べて朝の川を渡り、舟の先を競って夕方の川を渡ってくる。
 この川の流れのようにいつまでも絶えず、
 この山が高いようにいよいよ立派にお治めになる、
 この水の激しく流れ落ちる滝の御殿は、いくら見ても飽きることがない。
   反歌
 何度見ても飽きることの無い吉野の川の常滑(とこなめ)のように、
 絶えること無く何度も何度も見にきましょう。
  
場所  吉野郡吉野町宮滝・中荘小学校門脇(揮毫者・武田祐吉)
原文    幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌
  八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之
  清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱
  太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競
  夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激
  瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞
    反歌
  雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
写真  

 
2011.10.20
持統天皇の吉野の離宮を称えた歌です。
持統天皇は、在位11年の間に31回、吉野へ行幸しています。
吉野は大和朝廷にとっては聖地であり、また持統天皇にとっては亡き夫・天武天皇と苦難を共にした想い出の地でもありました。



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