長屋王 巻1-75 | |
大行天皇(さきのすめらみこと)の吉野の宮に幸しし時の歌 宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに 右の一首は長屋王 |
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口訳 | 宇治間山の朝風は寒い。 旅先にある私に、衣を貸してくれるはずの妻もいないのに。 |
場所 | 吉野郡吉野町千股・葛上白石神社前(揮毫者・吉岡直子) |
原文 | 大行天皇幸于吉野宮時歌 宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應借 妹毛有勿久尓 右一首長屋王 |
写真 | 2012.4.11 |
明日香から芋峠を越えて吉野へ抜ける山越え道を吉野へ出たところ、 千股に宇治間山があり、歌碑は神社の前に建っています。 たまに「天武・持統天皇吉野行幸コース」と称して ジョギングするコースですが、はっきりいってきついコースです。 大行天皇は文武天皇。 長屋王は高市皇子の長男。 聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇ったが、藤原氏が画策した光明子立后に反対して対立しました。 すると、「長屋王が密かに要人を呪詛して国を倒そうと謀っている」との密告がなされました。 養老4年(720)に藤原不比等が亡くなってからは彼に並ぶものがいなくなり、 正二位左大臣にまでなりましたが、神亀6年(729)年2月に謀反の密告により追及され、妻子とともに自殺に追いやられました。 その後、(735)年に天然痘が大流行し、長屋王亡き後に権勢をふるっていた藤原不比等の4人の子供たち、 房前・麻呂・武智麻呂・宇合が次々に病死しました。 人々はこれを「長屋王」のたたりとして怖れました。 続日本紀の巻第13の天平10年(738)の個所には、「長屋王に仕えていた大伴子虫(おおとものこむし)が、 囲碁をしていた相手の中臣宮処東人(なかおみのみやこあずまんど)を斬殺した。長屋王事件のことに話がいったときのことだった。」 と記されています。 東人は、かつて長屋王を誣告した人物でした。 大伴子虫が特に罪に問われている記事はありません。 |
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