衣通王(そとほしのおほきみ) 巻2-90
    古事記に曰はく「軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。
    故(かれ)、その太子を伊予の湯に流す。
    この時、衣通王、恋慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく

  君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの
  迎へを行かむ 待つには待たじ〔ここに山たづと云ふは、今の造木(みやつこぎ)なり〕
    といへり。
    右の一首の歌は古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じからず。
    歌の主(ぬし)もまた異なれり。
    因りて日本紀を検(かむが)ふるに曰はく
    「難波高津宮に天の下知らしめしし大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の二十二年春正月、
    天皇、皇后に語りて『八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて将に妃となさむとす』といへり。
    時に皇后聴(ゆる)さず。
    ここに天皇歌よみして皇后に乞ひたまひしく云々。
    三十年秋九月乙卯(いつばう)の朔(つきたち)の乙丑(いつちう)、
    皇后紀伊国(きのくに)に游行(ゆぎやう)して熊野の岬に到りて
    其処(そこ)の御綱葉(みつながしは)を取りて還りたまひき。
    ここに天皇、皇后の在(おは)しまさざるを伺ひて八田皇女を娶(ま)きて宮の中に納れたまひき。
    時に皇后、難波の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞かして大(いた)くこれを恨みたまひ云々。」
    といへり。
    また曰はく
    「遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に天の下知らしめしし雄朝嬬稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)天皇の二十三年春三月
    甲午(かふご)の朔(つきたち)の庚子(かうし)、
    木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)としたまひき。
    容姿佳麗(かほきらきら)しく、見る者自ら感(め)でき。
    同母妹軽太娘皇女(いろもかるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(いみじ)。云々。
    遂に竊(ひそ)かに通(たす)け、うなはち悒(おぼほ)しき懐(こころ)少しく息(や)みぬ。
    二十四年夏六月、御羮(みあつも)の汁凝(しるこ)りて氷(ひ)となりき。
    天皇異(あや)しびて、その所由(ゆゑ)を卜(うらな)へしむるに、卜者(うらなへ)の曰(まを)さく
    『内の乱あり。けだし親々相奸(しんしんあひたは)けたるか云々。』
    といへり。
    よりて太娘皇女(おほいらつめのひめみこ)を伊予に移す」といへり。
    今案(かむが)ふるに二代二時にこの歌を見ず。
口訳   あなたがいらっしゃってから、ずいぶんと日が過ぎてしまいました。
  山たづのように、あなたを迎えに行きましょう、待ってなんかいられません。〔ここで山たづというのは、今の造木のことである。〕
原文    古事記曰、軽太子、奸軽太郎女。
    故、其太子流於伊予湯也。
    此時、衣通王、不堪恋慕而追往時歌曰

  君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待〔此云山多豆者、是今造木也〕
    右一首歌古事記与類聚歌林所説不同。
    歌主亦異焉。
    因検日本紀検曰、
    難波高津宮御大鷦鷯天皇廿二年春正月、
    天皇、語皇后、納八田皇女将為妃。
    時皇后不聴。
    爰天皇歌以乞於皇后云々。
    三十年秋九月乙卯朔乙丑)、
    皇后遊行紀伊國到熊野岬取其処之御綱葉而還。
    於是天皇、伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中。
    時皇后、到難波済、聞天皇合八田皇女大恨之云々。
    亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰天皇廿三年春三月甲午朔庚子、
    木梨軽皇子為太子。
    容姿佳麗、見者自感。
    同母妹軽太娘皇女亦艶妙也。云々。
    遂竊通、乃悒懐少息。
    廿四年夏六月、御羮汁凝以作氷。
    天皇異之、卜其所由、卜者曰、有内乱。盖親々相奸乎云々。
    仍移太娘皇女於伊予者。
    今案二代二時不見此歌也。
場所  鹿児島県薩摩川内市中郷・万葉の散歩道 (揮毫者・湯ノ谷千恵子)
写真  

 
2020.2.17
薩摩川内市の歴史資料館の裏手の川筋に15基の万葉歌碑が建っており、そのうちのひとつです。

「山たづ」は植物の「ニワトコ」のことで、葉が向かい合っていることから「むかう」→「むかえに」と
「調べ(リズム)」をもとにした「迎へ」に懸る枕詞となっています。



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