大来皇女(おほくのひめみこ) 巻2-163/大津皇子 懐風藻
   藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代
   [高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、天皇の元年丁亥(ひのとゐ)の十一年に、位を軽太子(かるのみこ)に譲り、
   尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ]
   大津皇子(おほつのみこ)の薨(かむあが)りましし後に、
   大来皇女(おほくのひめみこ)の伊勢の斎宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上(のぼ)りし時に作りませる歌

  神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを
    なにしか来(き)けむ 君(きみ)もあらなくに

  金鳥(きんう)西舎に臨み
  鼓聲(こせい)短命を催(もよお)す
  泉路賓主(せんろひんしゅ)なく
  此の夕家(ゆふへ)を離れて向かう 
口訳    伊勢の国にでもいたほうがましなのに、どうして来てしまったのでしょう。あの方はいないのに。

  金烏(太陽)はすでに傾いて、西の家屋を照らし
  時を告げる鼓の音は、死を目前にした短い命をせきたてるように聞こえてくる。
  死出の旅路には、お客も主人もなくただ一人。
  この夕べ自分の家を離れて孤影さびしく黄泉の旅へ出る。
場所  桜井市吉備・春日神社境内 (揮毫者・福田恒存)
原文    大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢斎宮上京之時作歌
  神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

  金烏臨西舎
  鼓声催短命
  泉路無賓主
  此夕誰家向
写真  

  
2011.11.28
大津皇子は天武天皇の御子。大柄で容貌も男らしく人望も厚い人物でした。
草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、
686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑されます。享年24歳。
草壁の安泰を図ろうとする皇后の思惑がからんでいたともいわれます。
大津皇子が刑死した1ヶ月後、大来皇女は当時奉仕していた伊勢斎宮の任を解かれ
飛鳥の都へ上る時に作った歌です。都へ帰る理由のないむなしさを歌っています。

漢詩は『懐風藻』に載る大津皇子の五言絶句です。



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