大来皇女 巻2-166
   大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時に、大来皇女の哀しび傷みて作りませる御歌
  磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
  見すべき君が ありと言はなくに
   右の一首は今案ふるに、移し葬れる歌に似ず。
   けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、
   路の上(ほとり)に花を見て感傷哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。 
口訳   水辺に生える馬酔木を手折って、あなたに見せたいと思う。
  けれど、それをお見せするべきあなたが(この世に)いないことだのに。
原文    移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作歌
  礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼
  令視倍吉君之 在常不言尓
   右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。   
場所  静岡県浜松市浜北区平口・万葉の森公園 (揮毫者・大城東石)
写真  
2018.2.17
場所  鹿児島県薩摩川内市中郷・万葉の散歩道 (揮毫者・青崎照子)
写真  

  

2020.2.17
大来皇女が伊勢の斎宮の任を終えて帰京したのは朱鳥元年(西暦686年)十一月のことでした。
唯一の肉親である弟・大津皇子は、一ヶ月前の十月三日に謀反の罪によって処刑されました。
皇族の葬儀は、通常長い期間をかけて執り行われるものですが、大津皇子の場合は罪人の扱いですから、すみやかに埋葬されたのかもしれません。
この歌の題詞には「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の悲しびて作らす歌」とあります。
処刑後しばらく経って、事件の影響が収まってから、相応の埋葬の仕方に改めたものと思われます。
移葬の時期については不明ですが、多くの万葉集の注釈書にはこの歌の「馬酔木」を手がかりに、翌年の春のこととしています。
「見すべき君がありと言はなくに」は当時の風習に基づいた表現で、
人が亡くなった時、身近な人々が「あの人は今、山の中にいて、静かに暮らしているんだよ」などと言って遺族を慰めたらしいのです。
死んだ、のではない、もう会えないけれども、どこかに今もいるのだと信じられれば大きな慰めになるでしょう。
ところが、大津皇子は刑死でした。人々は累が及ぶことを恐れて、その類のことを誰も言ってくれないのです。
美しい馬酔木を見て、弟に見せてやろうと手を伸ばす。
でも、その弟がもういないことに気付き、ふと手が止まる。大来皇女の悲しみが伝わってきます。



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