柿本人麿 巻3-235 | |
天皇(すめらみこと)の雷(いかづち)の岳(をか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 大君(おほきみ)は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 雷の上に 廬(いほ)らせるかも |
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口訳 | 大君(持統天皇)は神でいらっしゃるから、天雲にとどろく雷のさらにその上に、仮のやどりをしておいでになることよ。 |
場所 | 高市郡明日香村雷・雷交差点歩道脇(揮毫者・犬養孝(国文学者)) |
原文 | 天皇御遊雷岳之時、柿本朝臣人麿作歌一首 皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨 |
写真 | 2011.2.11 |
雷丘は、高市郡明日香村大字雷にある標高110mほどの丘。 遠くに見える山は畝傍山です。 柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。 後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。 また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。 経歴は「続日本紀」等の史書にも書かれていないことから定かではなく、万葉集の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。 一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、 天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。 ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。 賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。 複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。 近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、 宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。 ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、 この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。 万葉集巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、 また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、 官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、 この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、 後人の仮託であるとの見解も有力である。 また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、 草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。 藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。 |
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