物部影媛・日本書紀 | |
石の上(いそのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛(も)り 玉もひ(たまもひ)に 水さへ盛(も)り 泣き沾(そほ)ち行くも 影媛あはれ |
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口訳 |
布留を過ぎて、高橋を過ぎ、 大宅を過ぎ、春日を過ぎ、 佐保を過ぎ、 お供えの美しい食器にはご飯まで盛り、 美しいお椀には水さえも盛って、 泣き濡れて行くのだ。影媛、ああ可哀相に。 |
場所 | 天理市櫟本町・和爾下神社(揮毫者・清水明峰) |
写真 | 2013.1.12 |
影媛は、以前から交際していた平群(へぐり)の鮪(しび)が、 太子(後の武烈天皇)の命で大伴金村(おおとものかなむら)の軍に乃楽(なら)山で殺されたのを悲しみ、 布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。 ここ櫟本は、山の辺の道と都祁(つげ)山道との衝(ちまた) に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝(ようしょう)であった。 媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。 都祁山道を挟んで、南には物部氏、北には和珥(わに)氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。 武烈天皇の母、春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)は、 雄略天皇が和珥臣深目(わにのおみふかめ)の女(むすめ)童女君(おみなぎみ)に生ませた女である。 影媛は物部の麁鹿火大連(あらかいおおむらじ)の女である。 (石碑横の説明版より) |
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