近鉄吉野線開業100周年記念ハイキング便乗マラニック

  近鉄吉野線開業100周年記念スペシャルハイク25         

こんな告知が駅でされてましたので、
同じコースを同じ時間にジョギングするという便乗マラニックをやってみました。

2012年10月25日で近鉄吉野線の前身である吉野軽便鉄道が吉野口駅〜六田駅間を開業して100周年になるそうです。
吉野線25.2キロに合わせて橿原神宮から吉野まで名所・旧跡を訪ねながらハイキングするというのが本来の近鉄の企画です。

朝8時、受付の橿原神宮駅にいきました。
私のいつもの通勤に使っている最寄り駅です。

  ちょこっと展示やっていました         

  中央出口で受付         

  橿原神宮の鳥居         

橿原神宮
旧官幣大社。
神武天皇は、皇孫・ニニギの尊より四代目にあたり、第1代天皇の位につき、
カムヤマトイワレヒコホホデノスメラミコトともいわれる。
ヒメタタライスズヒメ皇后は日本書紀ではコトシロヌシノミコト、古事記ではオオモノヌシノミコトの娘神である。
明治23(1890)年3月、橿原神宮の社号が宣下されて官官幣大社に列せられ、同4月2日勅使参向のもと、御鎮座祭が行われた。
旧来その所在が明らかではなかった神武天皇陵や橿原宮跡について、この地方篤志の人々の考証と保存の運動がきっかけとなり、
神武天皇を祀る神社の創立が実現の運びとなった。
明治天皇はこれを深く喜び京都御所の賢所と神嘉殿を下賜した。

創建当時、規模は小さく施設も不十分であったが、昭和15年、紀元2600年記念大祭斉行の記念事業として、
境域15万坪に及ぶ整備拡張事業が行われた。
この事業には全国よりのべ120万人が勤労奉仕し、8万本もの樹木が献木されたと記録されている。
最も重要な祭典は2月11日の紀元祭であり、盛大に執り行われる。

  久米寺は橿原神宮と目と鼻の先         

  久米寺         

久米寺
推古天皇の世に、聖徳太子の弟である来目皇子(くめのみこ)が創建したと伝えられる。
7歳で失明した来目皇子が聖徳太子の勧めにより薬師如来に祈願したところ、
みごと治癒したため、自らを来目と名付け、薬師如来を祀る伽藍を建立したという。
その後、インドから善無畏三蔵が来朝し、当寺に多宝大塔を建立したとも伝えられる。
また、欽明朝に葛城で生まれ、時を隔てて聖武天皇の世に活躍した久米仙人が開いたという伝説や、
一説には伴造の久米直(くめのあたい)率いる久米部の氏寺であるといわれ、多くの由来をもつ寺である。

建築では、万治2年(1659年)に京都仁和寺から移築された多宝塔が重要文化財指定。
室町時代の古材を使用して寛文3年(1663年)に建立された本堂には、
本尊の木造天得薬師瑠璃光如来坐像はじめ、多くの仏像を祀る。
多宝塔近くには大きな塔の心礎を含む礎石群が残り、飛鳥時代から奈良時代にかけての瓦が多数出土した。
5月3日に行われる二十五菩薩来迎練供養会式は、「久米れんぞ」の名で親しまれている。
西国薬師第7番札所、大和七福八宝霊場。

  重要文化財の多宝塔         

久米寺から白橿町内をぬけて岡寺駅へ。
岡寺駅からは住宅地をとおって欽明天皇陵へ。
欽明天皇陵からはふだんのジョギングコースになりました。

  欽明天皇陵         

   猿石         

猿石
欽明天皇陵の南西にある小さな森が、皇極(斉明)天皇・孝徳天皇の母にあたる吉備姫王(きびつひめのおおきみ)の墓である。
その墓域内に猿石とよばれる石像が4体置かれている。
猿石は、元禄15年(1702年)に欽明陵の南側の水田から掘り出され、一時欽明陵内に置かれていたが、
明治時代に吉備姫王の墓域に移されたという。

花崗岩を用いて作られた4体の石像は、それぞれ1mほどの高さで、頭部を比較的大きく彫り出している。
石像は、西に面して南北に並ぶが、その面相や姿形から、北から順に女性、山王権現、僧(法師)、男性と呼びならわしている。
像を背中合わせに彫り出しているものもある。
7世紀の作と見られるが、それぞれ奇抜な姿形を表し、野性味を感じさせる。

  猿石から鬼の雪隠・鬼の俎へむかう道         

   鬼の雪隠・鬼の俎         

鬼の雪隠・鬼の俎
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。
両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、
盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。
元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。

大きさ
底石(俎)は長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m。
石室(雪隠)の内幅は約1.5m、高さ約1.3m。
言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。

底石(俎)には多数の穴が開けられており、割り取ろうとした形跡がみられる。
これは高取城建設の際に、石垣の石材として利用しようとしたためとみられる。
俎の位置は雪隠から見てやや東側にずれている。
実は現在の俎の西にもう一つ別の俎があり、明治の頃に小さく割られ庭石に転用されたという。
すなわち鬼の俎・雪隠古墳は双墓であり、現在の雪隠は西側にあったもう一つの俎と組み合わされた石槨だというのである。

  亀石         

亀石
亀石とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。 長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。
ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。

言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、
川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。
亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。
そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。

  亀石から明日香小学校を経て文武天皇陵へぬける田園風景。いい感じ。         

  文武天皇陵         

  檜隈寺跡         

檜隈寺
檜隈寺は、奈良県高市郡明日香村にあった渡来系氏族、東漢氏の氏寺とされる古代寺院。
7世紀後半の創建で中世には道興寺(どうこうじ)とも称した。
高松塚古墳の南方、渡来系氏族が居住していた檜前(ひのくま)の地に寺院跡がある。

『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である。
『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである。
鎌倉時代の『清水寺縁起』には大和国高市郡檜前郷に「道興寺」という寺のあったことがみえ、中世には道興寺と呼ばれていたことがわかる。
1908年に大阪府中河内郡で出土した永正10年(1513年)銘の梵鐘には「大和国高市郡檜前」「奉道興寺鐘」という文言があり、
当時、道興寺が存続していたことがわかる。
本居宣長の『菅笠日記』は、彼が明和9年(1772年)に飛鳥・吉野を訪ねた時の記録であるが、
宣長が訪れた当時の檜隈寺は仮の庵が残るのみで、境内には古瓦が散乱していた。
かつての境内には於美阿志神社が建ち、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財、上部を欠く)が建っている。
なお、神社は明治40年(1907年)頃現在地に移ったもので、元は現在地の西方にあった。

寺跡は1969年以降、4次にわたる発掘調査が実施された。
その結果、檜隈寺の伽藍配置は、中軸線が西方に振れ、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、
中門は西側に位置する特異なものであったことがわかった。
塔跡の南方に位置する土壇は、発掘調査前には中門跡と考えられていたが、実際には三間四面の仏堂の跡であり、
塔の西側に位置する礎石建物が、その位置や規模からみて中門であるとみられる。
伽藍主要部は回廊で囲まれ、回廊の西辺に中門、南辺に金堂、北辺に講堂が位置し、回廊内の東寄りに塔が位置していた。
こうした特異な伽藍配置の意味については丘陵地に位置する地形上の制約によるものと考えられている。
塔跡には心礎と四天柱の礎石が4つとも残り、講堂跡には瓦積基壇が遺存するなど遺構の保存状況は良好である。
寺跡は国の史跡に指定されている。

  キトラ古墳へ向かう         

  キトラ古墳         

キトラ古墳
キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。
亀虎古墳とも書く。
近年では壁画が発見されており、高松塚古墳と共に保存事業が進められている。
二段築成作りの円墳である。
墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。

1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、注目を集めた。
2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、
遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。
誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。

年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。
また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
白石太一郎は、被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、
その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。
岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。
直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした。
阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。
また猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。
千田稔は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げる。

二段築成の円墳である。
上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
内部構造は横口式石槨で天井は家形になっている。
石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。
奥壁・側壁・天井の全面には漆喰が塗られ、壁画がほどこされている。
東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、
北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。
同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、
キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。
しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。
このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。
これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。

天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、
傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。
この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。
現在、古墳一帯は国営飛鳥歴史公園の一部として整備が進められている。

発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明した。
このため壁画をはぎ取り、保存する作業が行われている。
文化庁は2004年8月より、損傷の激しいものから順次はぎ取り作業を開始。
同庁によれば、2007年2月15日までに南壁の朱雀がはぎ取られ、確認されている壁画のはぎ取り作業は(天井の天文図を除き)完了した。
キトラ古墳壁画がはぎ取られた後、南側に「仮設保護覆屋」が建設されている。
また、墳丘はカバーに覆われており見学は出来ない。
壁画の一部は2009年5月8日から同24日まで奈良文化財研究所飛鳥資料館にて一般公開された。
研究・保存・公開などは奈良市にある奈良文化財研究所が主となっている。

現在のキトラ古墳はホンマに風情のないところですが、
いま、公園整備がすすんでいます。
どんな古墳公園になるのか興味有ります。

  子嶋寺         

子嶋寺から土佐街道をとおっていたら
安田たっちゃんに偶然会いました。

そうこうしているとちょうどやっていたお祭りのだんじり引き回しとタイミングがあいました。
観覚寺のだんじりはなかなか歌舞いていてたのしいです。

下子嶋のんは逆にこどもムード満点でかわいらしかったです。

  観覚寺のだんじり転回中         

  歌舞伎者の若者がいっぱい         

  威勢がよくて元気の出るだんじりでした         

  下子嶋のだんじり         

土佐街道をすぎると今度は壺阪寺への上り坂。
けっこうきつかったです。

  壺阪寺到着〜         

壺阪寺をすぎてもそのまま壺阪峠への上りは続きます。
壺阪峠越えは初めてだったので達成感ありました。

  畝傍山がはるか遠くにみえました         

壺阪峠を越えると大淀町。
国道169号の芦原トンネルをでたところに出てきました。
ここから少し下りです。

  蔵王寺というところで湧水を補給しました         

  世尊寺本堂         

  世尊寺         

世尊寺は廃れ具合がビミョーで、けっこう雰囲気よかったです。

六田駅をすぎると柳の渡し。
ここで吉野川を渡ります。

  柳の渡し         

  吉野川を渡る         

  柳の渡しとは         

ここからは脳天さんまで一本道ですが、
すごく長く感じました。
でも、とおりがかりのおばちゃんたちが気さくに話しかけてくれて
「橿原神宮からきましてん」というとみな一様におどろかれました。
まあ、たしかにふつう徒歩とかジョギングでくるような道もありませんので…。

脳天さんまでくるとあとは金峯山寺蔵王堂までいっきに石段をあがるだけです。

  最後の上りがえげつない         

  少しのぼって振り返ってみました         

ゴールは蔵王堂の真ん前に設けてくれてありました。

ラッキーなことに抽選でもらえる護摩木ストラップもゲットしました。
健康のことについてお願いしました。
ここ数年神社やお寺ではこのことばかりお願いしています。

  護摩木ストラップ         

  ハイキングの参加者は1010名         

  蔵王堂その1         

  蔵王堂その2         

金峯山寺
吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る金峯山(きんぷせん)は万葉の昔より聖地として知られ、多くの修行者や貴族が足跡を印している。
白鳳年間(7世紀末)修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、
そのお姿を桜の木で刻み、お堂を建ててお祀りした。これが蔵王堂であり、金峯山寺の草創である。
以来、金峯山は、修験道の根本道場として広く万人に尊崇され、多くの修行者が宗派を超えて入山修行している。
また、役行者が蔵王権現のお像を桜の木で刻んだことから、桜が保護・献木されて吉野山が桜の名所となり、人々の心の安らぎの場となるに至ったのである。

吉野山駅まで降りてきて、あとは近鉄電車で帰宅しました。
けっこう厳しいハイキングコースでしたが4時間でマラニックできて満足の一日でございました。
めでたしめでたし。

  本日の参加賞         




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