五島列島夕やけマラソン2015(5kmの部)

今年の夏合宿をどこにしようかと5月頃から思案しておりましたが、
候補にあがったのが岩手県の石川啄木マラソン長崎県の五島列島夕やけマラソンでした。

どっちもアクセスとかボーナス観光とかの面でピンとくるものがなくて迷っていたのですが
6月に入ってから世界遺産登録がらみで軍艦島(端島(はしま))が某国の猛反対にあっている
という話題性にひっぱられて長崎にすることにしました。

まだマラソンの申し込みが始まっていませんでしたので
まず旅程をおさえてからマラソンの申し込みをしようと思っていたのですが、
これがエラい苦労しました。

大手の旅行社の個人旅行プランを調べてみると、
五島列島マラソンの開催される福江島のマラソン当日の宿泊は「設定除外日」に設定されていました。
と、いうことはどこかの会社が全部押さえきってしまっているということです。
どこの会社かはすぐにわかりましたので、ネットでの申し込みということでしたから、
とりあえず申込解禁日に宿と足(長崎港からの船)の確保にチャレンジして
確保できたらマラソン大会のエントリーをする、という方針でのぞみました。

エントリー解禁日、10時スタートだったかと思いますが、
なんとか「民宿プラン」と「往復ジェットフォイル」を申込できたと思ったら
やり方に不備があったようで、
いろいろと騒動があった挙句に10日ほどかかってやっと無事確保することはできたものの、
福江港とは正反対のエライ遠いところの民宿になってしまいました。
福江島ってけっこうな大きさの島だったのでけっこう不安を感じましたですよ。

次に苦労したのがマラソン翌日の軍艦島クルーズと長崎市内の宿泊でした。
関西から長崎への往復の空の便も満杯でした。
「いったいどういうこっちゃねん???」と思いながら、
とりあえずまだ1か月以上前でしたので往復JRにエントリー予約、
それにだいぶ遠くなるけどレンタカーと雲仙温泉を押さえておくことにしました。

結局、軍艦島クルーズはなんとか確保できました。

ところが長崎市内はまったくのパンパン状態。
最初は大浴場のあるホテルでゆっくり羽根をのばそうとか思ってたのに
ビジネスホテルすら空きがないとのことでした。
「不思議なことやなあ」と思いながら、長崎市内のホテルのキャンセル待ちと
復路の航空便のキャンセル待ちをいれて直前まで待つことにしました。

こんなやり取りをしていたのは6月の下旬のことでした。

…が、夏場になって極度の体調不良に陥ってしまったのです。

メンタル系でしたので、家族旅行だったらとっくに中止してたところなんですが
今回も辻井さんとのふたりきりの恒例の合宿でしたのでそういうわけにもいかず、
調子が回復するのをまっていたらずんずん逆に調子崩れていってしまいました。
体重が1か月の間に10kgも落ちてしまいました。

そんななか、「長崎市内でなんとかホテルにキャンセルがでました」とか
「席が離れますが帰りの飛行機も大丈夫になりました」とかの連絡が入り、
結局わたくしの体調が極悪なこと以外はちゃくちゃくと遠征の手はずが整っていったのでした。

で、迎えた遠征初日。
近鉄鶴橋駅で辻井さんと落ちあったのですが、
会ったとたんに辻井さんドン引きされてしまいました。
だってわたくし、げっそりやせこけていましたから。

ふらふらの状態で、環状線、東海道線と乗り継ぎ、新大阪へ。

新大阪からはのぞみで博多まで。
道中、いつもの遠征時といっしょでメンター辻井さん人生相談室を無理無理ひらいてもらい
いろいろと仕事の取り組み方や日常の生活にのぞむ態度など、ご教示たまわりました。
結局、今回の旅行はほとんどが移動時間だったので、
ホテルでほっこりしてるときも含め、ずっと悩みの相談にのってもらっておりました。
おかげさまで、辻井さんには悪いことをしましたが少しは救われた思いもしましたですよ。
ありがとうございました。

あと、天気予報どおり雨が降りだしましたですわ。

さて、やっと写真がはいります。
博多で特急かもめ号に乗り換えて長崎をめざします。

  特急車内。JR九州の列車はユニークなのが多いですね。           

博多駅の乗り継ぎで、駅弁を買っておいたのですが、
JR九州の電車はめちゃくちゃ揺れますな。
特急電車の中で駅弁食べるのにひと苦労しましたですよ。
それでなくても食欲なくて困ってたのに…。

  かもめ号長崎駅到着           

長崎港からのジェットフォイルにほぼすぐの連絡でしたので
雨の中さくさくと駅から港まで歩きました。

  ジェットフォイル           

ジェットフォイルそのものは高速でたいへん快適でしたが、
体調が↓↓↓でしたのでたいへん苦痛でした。
辻井さんにはほんまに悪いことをしました。

  福江港ターミナル到着           

福江港についたら奇跡的に雨がやんでいました。
こんな体調絶不調なうえに、新幹線やら在来線特急やら船まで乗り継いで
はるばるやってきたのに雨の中のマラソンてなったら目もあてられません。

遠征マラソンではめずらしくハーフ5kmの選択しかなかったので
5kmにしておいて正解でした。
…というか、5kmでなかったら遠征をほんまに取りやめていたか
辻井さんが走るのを見学していただけになったかもしれません。

  なんとか走る格好までこぎつけました           

  歓迎イベント中〜           

  ハーフの部のスタート風景           

ほんま身体はげそげそのガリガリやったんですが、
5kmだったのでなんとか完走しましたです。

  辻井さんはマイペースで完走           

  わたくしはほんまフラフラでした           

ゴール後に五島牛の試食というのがあったのですが、
マラソンの完走後にこういうことをしてくれてあるのはありがたいんですが、
気候がいい時とかにしてほしいなあとつくづく思いましたですよ。

特に、その時の私の場合、体調最悪の食欲絶無でしたのでほとんど食べられませんでした。
スタッフの皆さんに申し訳ない思いで会場をあとにしましたですよ。

  手際よく段取りされていました           

  体調良かったらなあ…           

ここからも面倒なことでした。
バス便は終わった後だったので、
タクシーで約1時間かけて民宿まで運んでもらいました。

きっと釣り宿だと思われるようなつくりのところでした。

それだけに晩ご飯は海の幸満載の豪華なものでした。
不思議なことに魚だとおいしく食べられました。

  結局完食できました           

翌日は路線バスで港まで移動することにしました。

  五島バスの「里」というバス停           

時間がありましたので、バス停付近をぷらぷらしておりましたら
三井楽中学校の校門に遣唐使船を模したプランターが飾ってありました。

  さすが遣唐使ゆかりの地           

路線バスで1時間近くゆられてやっと福江港に到着。
これだけでもその時のわたくしはくたびれておりました。

  ようこそ五島へ           

福江港から長崎港へのジェットフォイルでは世界陸上の女子マラソンをテレビで見ておりました。
伊藤舞さんがなんとか7位入賞、期待のダイハツ前田彩里さんは13位と不発でした。
好成績を残せなかったのにゴールした日本女子チームが日の丸を掲げてテンション上がってたのは
それだけ過酷なコンディションだったからでしょう。
ちょっと違和感がありましたが。

長崎港に着くと、少し調整時間があって
午後は軍艦島クルーズでした。

この時のお昼ご飯はうどんにしないといけないくらいへたっておりました。

  軍艦島クルーズは舟代が4000円くらい、上陸できたら300円の施設利用協力費がかかります           

ターミナルには軍艦島を紹介するジオラマが展示してありました。

  軍艦島は南北約480m、東西約160m、周囲約1,200m、面積約63,000u           

ここに最盛時には5,300人の人が生活していたそうです。
日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建設されており、
最盛時の人口密度は当時の東京都の9倍に達していたそうです。

  島のくらし           

  炭坑の仕事           

  さて出発ダス           

  軍艦島に到着           

  うーん、なんか違和感あるな。自分もやってることだけど。           

  こんなふうに埋め立てて島域が広がってきたわけですな           

  上陸します           

  遠方正面に見えてるのが端島小中学校           

端島小中学校の建物は7階建てで、1階から4階までが小学校
5階と7階が中学校、6階に講堂と図書館、音楽室があったそうです。

  総合事務所前にて           

総合事務所はレンガ造りの建物で、
この中には炭鉱夫のための大きな共同浴場があったそう。
なんかこういうとこだとテンションもあがりませんな。

  総合事務所前遠景。灯台施設がみえます。           

  建物の穴んこ越しに社宅アパートがみえます           

  プール           

  正面が30号棟アパート。奥が31号棟アパート。           

30号アパートは1916(大正5)年に建てられた日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の
高層アパートだそうです。
鉱員社宅として建設され、地下には売店もあったそう。
31号アパートには地下に一般用の共同浴場があり、
1階には郵便局や理髪店もあったとのこと。

  30号アパート前。だんだんテンションがさがっていきます。           

  観光ボランティアの説明を聞く。ここでも中国からの観光客が非常に多い。           

ま、もともと興味本位からここに来ることにしたのは確かですが、
現在、廃墟となっているこの地に過去に確かに人びとの「暮らし」があり、
それが紆余曲折をへて石炭から石油へのエネルギー革命のあと
無人島になって野ざらし状態となり、木造建築物は風化して台風にとばされてしまい、
鉄筋の建築物は「骨」だけが残っている姿というのはまさに「栄枯盛衰」のあと「そのもの」であり、
メンタルをいわしている自分にとってはたいへんこたえました。
これはほんまにつらかったです。

それでも、天候が悪いと上陸が許されなかったりすることからすると
昨日までの雨もあがり、また翌日には大雨になりましたので
ついてない中にも自分にはまだツキがあるのかなと思ったりしましたですよ。

  端島さん、さいなら〜           

  少し離れてみるとまさに軍艦島           

  軍艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになったのだそうです           

  どの角度からみてもいかついかっこうに見えますな           

軍艦島から長崎港へもどってきて、すぐにホテルにむかいました。

ホテルは当初予定していた稲佐山とは長崎港をはさんで反対側の風頭公園のそばにある高台にありました。

ホテルへ移動するタクシーの中で運転手さんから聞いてやっと合点がいったのですが
当日は福山雅治の稲佐山での大規模なコンサートが開催されており
長崎の町にとっては1年の中でも「超」特異日だったのだそうです。
この日は長崎の町がすべて福山雅治一色でした。
自分たちが泊まったホテルも「福山雅治夏の大創業祭2015ご一行様」の看板が掲げられており
この8月29日と30日は関係者以外の人にとっては悲惨な状況でございました。

もう歩き回ったりする気力もなんもなかったところ、
ホテルのすぐそばに坂本龍馬像があるということだったので
そこだけいくことにしました。

  龍馬がゆく〜           

  辻井さん、よくつきあってくれはりました           

  司馬遼太郎の石碑がありました           

  龍馬がゆく、読んでません           

  長崎港には某国からの爆買いツアー船が泊まっておりました           

わたくしたちの当日のイベントは予定終了しておりまして
あとはゆっくり露天風呂でいっぷくしたあとの晩ご飯だけでした。
ほんま移動がほとんどの旅程にしておいたからなんとかこなせましたが、
自由行動時間なんかたくさんいれていたらパニックになっていたと思われます。

くどいですが、移動時間中は辻井さんにずいぶん相手になってもらいました。感謝感謝。

  ホテル内レストランにて晩ご飯           

お昼はまったく食欲がなかったのに、
やはりおサカナ系だったからでしょうか、おいしくいただくことができました。
景色も楽しめたし、救いがありましたわ。

  おいしい鯛でした           

  どれも気が利いていておいしかった@           

  どれも気が利いていておいしかったA           

  だんだん日が暮れてきました           

  ちゃんぽん。太麺がおなかにこたえました。           

  ずいぶん暗くなってきた           

  完全に夜景になりました           

部屋にもどってからも、港をはさんで反対側の稲佐山からは
福山雅治の歌声がじゃんじゃん聞こえてきて、
挙句には花火まであがったりして印象的な夜でした。
自分は睡眠薬の力をかりて眠りにつきましたです。

一夜明けて、翌日は午前中、ちょこっとだけ時間があったのですが
雨だったこともあり、辻井さんにひっついて出島でふらふらしておりました。

全然記憶が残ってないのですが、
写真だけ残っておりますのであげておきます。

  出島にてその@           

  出島にてそのA           

  出島にてそのB           

  出島にてそのC           

  出島にてそのD           

小雨が降るなか、出島見学をはじめたのですが、やがて大雨になってしまい、
大雨の中、荷物をひきずりながら空港まで移動してやっとこさ帰ってきたという
ピリカラ夏合宿史上最高にへたった遠征でした。

このあとしばしの休養を経て、なんとか復活できましたので
辻井さんのありがたいお言葉に思いを馳せながら4か月遅れでできた遠征記をとじたいと思います。

  空港でたべたあげそば           

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