14番 三井寺(長等山 園城寺 観音堂)

12番岩間寺から13番石山寺とお詣りして
少々へたり気味でしたが、びわ湖に沿って北上して三井寺まできました。
本日はけっこうハードスケジュールです。

石段の多いお寺を一度にたくさんまわれるトシではなくなったのだなと実感しました。

三井寺はとても広くて驚くほどでしたが、かつて(明治以前)はもっともっと広かったようです。

まずは仁王門。

  仁王門(重文、室町時代)

  仁王門ドーン!

入母屋造、檜皮葺の楼門。
もとは甲賀の常楽寺にあったが、
1601(慶長6)年に徳川家康が寄進して移築されたものだそうです。

   

仁王様は運慶作と伝えられています。
迫力があってすごいです。

仁王門を入ってまずは右手に釈迦堂(食堂)がありました。

  

  釈迦堂(重文、室町時代)

入母屋造、檜皮葺。

  御所の清涼殿を移築したものだそう

金堂(総本堂、国宝、桃山時代)への石段を登ります。

  ちょっとちょっとの石段がけっこうこたえます(笑)

  登ったところは金堂の右側にあたります

  金堂(国宝、桃山時代)

ここも迫力ありました。
なかにたくさんの仏像がならんでいて圧倒されました。

  

  現存しているのは北政所により再建されたものだそう

  閼伽井屋(重文、桃山時代)

  格子戸の奥にある岩の間からコポコポと霊泉が湧き出しています

この泉は、天智天皇、天武天皇、持統天皇の三天皇の産湯に使われたといわれています。
これが「御井」となり「三井」と転じて三井寺と呼ばれるようになったいわれだそうです。
正面上部に左甚五郎作の龍の彫刻があり、
この龍が夜な夜な琵琶湖に現れて暴れたので
甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んで静めたという伝説があります。

  

  

  なるほど!

  

  鐘楼(重文、桃山時代)

鐘楼は切妻造、檜皮葺。

  

  梵鐘(桃山時代)

梵鐘は「三井の晩鐘」でよく知られ、
宇治平等院高尾神護寺とともに日本三名鐘とされています。

  ひとつき800円か〜

  霊鐘堂

この建物の中に「弁慶の引き摺り鐘」がありました。
なんでもありますな、このお寺は(笑)

  

  弁慶鐘(重文、奈良時代)

奈良時代の作とされるこの梵鐘は、
むかし俵藤太秀郷三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したものと伝えられています。
その後、延暦寺との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると
「イノー、イノー(「いぬ=関西弁で『帰る』の意」)」と響いたので、
弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨てたのだそう。
その時にできたといわれているすり傷やひびが残っているそうです。ほんまかいな(笑)

  一切経蔵(重文、室町時代)

  

  八角輪蔵

毛利輝元の寄進により、1602(慶長7)年山口県の国清寺から移築されたものだそうです。
けっこう手間ひまかかってるものが多いですね。
内部の中央には、高麗版の一切経を納める回転式の八角輪蔵があります。
これ、信州の善光寺でも見たことあります。

  三重塔(重文、室町時代)

  

もともとは奈良県の比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を
秀吉伏見城に移築し、
さらに1601(慶長6)年に家康寄進したものだそうです。

  潅頂堂(重文、桃山時代)

  

潅頂堂は、寺流の密教を伝承する道場。
潅頂堂の奥手に大師堂があり、国宝・智証大師像二躯、重文・黄不動尊立像をまつっているそうですが
写真を撮ってるときにそのことを見落としており、ちゃんと撮れませんでした。

  

この一帯は唐院といって三井寺の開祖・智証大師の廟所として最も神聖な場所、とのことです。

  潅頂堂と三重塔

  微妙寺

  

  天台大師

やっとこさ札所に近づいてきました。ふぅ。

  毘沙門堂(重文、江戸時代)

  

  独特な色合いですな

1616(元和2)年に建立されたもので、極彩色がたいへん美しいです。

  やっと札所(観音堂)だわ(笑)

また石段をのぼりましたが、やっと観音堂ゾーンにたどりつきました(笑)

  ここからの琵琶湖の眺めはなかなかよかったです

  観月舞台

  札所である観音堂にやっと到着〜

  観音堂ドーン!

  いただいたご朱印

早朝から強行軍でお寺を詣ってきたうえに、
石山寺で予定していたお昼ご飯がたべられなかったので
三井寺の門前でなんとかお昼をたべました。

  ふつうのにしんそば

  お詣りの記念。このパンフレットがなければこの記録は絶対につくれなかった(笑)




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