9番 興福寺 南円堂

わたくしのお勤め先からたいへん近いところにある興福寺です。

興福寺に近いお勤め先で何十年も働いていますが、
お昼ご飯を食べに外出するたびに境内を通るから
あたりまえすぎる存在でしたので、
実のところ、ここに西国札所があることも今まで知りませんでした(汗)

国宝の東金堂と五重塔(三重塔も)は、日常の風景です。
県外から友人が来たりすると国宝館を案内するのもしばしばです。

北円堂はふだん公開していなくて、時々公開されますが
そこにも公開時にはよく行っています。

そういう意味で、札所である南円堂はあまり意識したことのない建物でした。

中金堂の整備をしている最中に支店勤務になって、
支店勤務が長くなっているうちに
中金堂ができあがってしまいました(汗)

今回も、建物中心にお詣りしてきましたが、
ちょこっと調べたことを記録しておきます。

興福寺は、藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として
669(天智天皇8)年に山背国山階(現在の京都市山科区)で創建した山階寺が起源だそうです。
壬申の乱のあった672(天武天皇元)年、山階寺は藤原京に移り、
地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)といいました。

710(和銅3)年の平城京への遷都に際し、鎌足の子・不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」としました。
この710年が実質的な創建年とのことです。
その後、天皇や皇后、藤原家によって伽藍の整備がすすめられてきましたが、
不比等が没した720(養老4)年には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、
元来藤原氏の個人的な寺であった興福寺の造営は国家の手ですすめられるようになりました。

興福寺は奈良時代には四大寺平安時代には七大寺のひとつに数えられ、
特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護されました。
平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国のほとんどを領して事実上の国主となりました。

鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため
鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けました。

安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、1595(文禄4)年の検地では
春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされました。

一方、興福寺は創建以来、たびたび火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきました。
特に中金堂は失火や兵火、落雷により7度焼失しています。
なかでも1180(治承4)年、源平合戦の最中に行われた平重衡南都焼き討ちによる被害は甚大で、
東大寺とともに大半の伽藍が焼失しました。
現存する建物や寺宝はこれ以降に製作されたものが多いです。

1998年には世界遺産に登録され、2018年には中金堂が再建されました。
うむ、Wikipediaって便利だ(笑)
興福寺のホームページにもほぼほぼ同じ記述がありますが(笑)

さて、建物の写真を貼りますよー(笑)

  世界遺産です

  建物の配置

  北円堂(国宝、鎌倉時代)

北円堂はほんとうに美しい形をしており、お気に入りのお堂のひとつです。

  三重塔(国宝、鎌倉時代)

  お地蔵さんの群れ(笑)

  確かに西国札所の表示がありますね

右手には猿沢池が見えています。

  この石段をのぼりきると南円堂

  再建なった中金堂

  鴟尾がとても美しい

お金かけて長いことかけて建てただけあって迫力あります。
まだ、中を見に入ったことないので機会をみつけていこうと思います。

  東金堂と五重塔

  五重塔(国宝、室町時代)

  東金堂(国宝、室町時代)

  コロナで観光客が減っているぶん、鹿がヒマそうにしていました(笑)

  東金堂の向こうにわたくしのお勤め先の本社建物がみえてます

  南円堂(重文、江戸時代)

  ここが札所ですな

  観光客がいなくてしんとしているとそれなりに神妙な気持ちになります

  いただいたご朱印




トップページへ